腰椎転移。。??


メラノーマの手術から1年3ヶ月で抗がん剤を辞めました。
そして
抗がん剤を辞めて4ヶ月。。。
1992年7月。


抗がん剤を辞めたことで、
副作用がなくなり、体調が良い^^などと思い上がっていました。
ピーナッツ・チョコが大の好物。
甘いものなんて好きじゃなかったのに。。
UCCの缶コーヒーも大好物。。

今、思うと。。。ホント、馬鹿!!


娘が熱を出した。
寝室で、娘と一緒に寝ていたら。。
7月16日。
なのに。。
世間は暑くて仕方がないはずなのに。。
窓を閉め切って、クーラーをつけたら、
ブルブル震えてきた。
クーラーを止めても、寒くてたまらない。
布団を被ってブルブル震えていた。

「保育園に、次男を迎えに行かなければ・・・」
と、思いつつ。。体が動かない。
2階の寝室から、階段を降りるのが精一杯。
次男のお友達のお母さんに電話を入れた。
「動けないの。迎えに行けないの。」と、
次男を頼んだ。
紺色の車(お友達のお母さんの車)が家の前に着いたのに・・
玄関に迎えに出ることもできない。
次男が家に入ってくる。
私は、電話の前で、崩れたまま・・・


県外の主治医の病院に電話を入れた。
「寒い。動けない」と。
主治医は、近くの病院を紹介してくれた。
「○○病院の○○先生に連絡しておくから・・・・・」
との主治医の言葉を遮った。
私「先生じゃなきゃいや!!」

主治医「・・・・・来れるの?」
私「行くぅ!」

当てはなかったけど、
他の誰でも(どんな医者も)嫌だ!と思った。
体がクタクタで、まったく立てない。
寒くて寒くて動けない。
何より・・・とてつもない恐怖感。


でも、神様って居るのかもvv
その瞬間。
千葉に長期で出張に行っていた父が、帰ってくると電話が入った。
「動けないの。病院連れてって。。。」
それだけ言うのが必死だった。

実家は、県外の病院と反対の方向へ40`近く南下する。
その実家への途中で、父が寄ってくれ、病院へ運んでくれた。
入院の荷物は、当時、小学1年生の娘が全部、準備してくれた。
私の入院の時のカバンも、洗面道具も、全部覚えててくれて、素早く用意してくれた。
朝、フラフラしながら干したGパンも入れてもらった。


病院に付いて、車椅子でそのままアイソトープの部屋で骨シンチ。
第3腰椎を中心に腰椎全部が真っ黒だった。
血液検査は・・・
白血球が1000代だった。

動けない。
歩けない。
フラフラする。
寝ていても、意識が時々、遠のく。

血糖値も下がってきているのだとか。。

怖いこと・・・
翌日、体重を量ったら〜
(入院時には体重・身長を測ることになっているけれど〜
私は、当日は計ること・・・できませんでした)

翌日、体重計に乗ったら。。。
一晩で4`も減っていました。
(トータル8日間で7`落ちました)
入院時に干してあるGパンを娘にカバンに入れてもらったのだけど
そのGパンが、8日後の退院の時には
ブカブカで腰から落ちそうになっていました。


さすがに・・・
この入院では。。子供三人を並べて、話をしました。
当時、9歳・7歳・4歳になったばかりの子供たちに。

「今度ばかりは、お母さん…ダメかもしれない。
でも、
最後まで諦めないからね。闘うからね。
それだけは信じてね。」
と。
子供達が泣き出した。。。
・・・・・
私「オバケって怖い?」
子供たち「怖いよぉ」
私「うぅ〜ん  じゃぁ  車に轢かれそうな時、ヒョイと抱き上げて
安全な歩道に連れてってくれるオバケなら??」
子供たち「・・・・」
私「テストで判らない時、いっつも100点の子の答案用紙を
持って、見せてくれるオバケなら???」
子供たち「ウン。そんなオバケなら怖くない^^」
私「じゃぁ お母さん、死んだら、そういうオバケになる!
そういうオバケになって、あなた達の傍に居るねvv」
私「だから、捜してヨォ〜」
子供たち「わかった!」
私「でも、最後まで頑張るからね」
・・・
なんて話をしたっけ。。。



娘がサプリメントもカバンに入れてくれていました。
胡麻も。
病院の食事・・・ご飯を半分捨て、胡麻を山ほどかけて食べました。
サプリメントもいくつか持っていったのですが〜
全ての栄養素を網羅した上で
(これが重要です。全ての栄養素を入れるコトが優先です)
網羅した上で
βカロチンを一晩で225,000IU

30時間後の血液検査・・・白血球4300まで上がっていました。


この話をすると・・・
「βカロチンには過剰症があるんだ!」と言ってくる人が居る。

「過剰症って、どんななの??」
と聞き返すと・・・
答えられる人なんて殆ど居ない。
でも、答える人も居て・・・
「βカロチンの過剰症は、手が黄色くなったり、
頭痛がしたり〜だよ」
ですって(>_<)
正直、蹴飛ばしてやりたくなる!
・・・例えば、踏み切りで、脱輪してしまって、車が動かなくなった時に
特急電車が近づいて来る時、
あなたなら、どうしますか??
エンジンを思いっきり吹かして、脱輪解除させますよね!?
その時に・・・
「そんな吹かし方したら、燃費が悪くなるよ!」
って言う人が居るだろうか??


・・・と、話を戻して〜


皮膚科の。。。私の担当ではない若い医師が
血相を変えて、入ってきた。
「抗がん剤…辞めてるんだって!!」と。
すぐ後から、主治医が来てくれた。
私には、主治医が若い医師を追いかけてきてくれたように見えた。


免疫のビタミンA・C・Eを重点的に『メガ』のレベルで摂り続けた。


全く、薬を貰わず(抗生剤ひとつも)、
検査だけをしてもらった。
腰がふにゃにゃするだけで、
後は、骨シンチの腰椎の影だけ。

8日間で退院しました。


病院でも家でも。。
吐きそうな時…
「食べなくなったら、終わり」と感じていて。。
まったく食欲も無かったし、吐き気もしていたけれど〜
ベッドの下に降り、床にベタッと座り、
ベッドにお膳をおいて食べました。
食べた後も、横になったら、口から流れ出そうな〜感じだったから
食後暫くは、床に座ったまま、ベッドにつっぷしていました。
つまり、引力の力を借りて、胃に流し込んでいました。


それからハンパじゃない『栄養素療法』を厳密にやりました。
ゲルソン病院で使っているサプリメントとか
アメリカでしか買えない『メガ』レベルの単位のサプリメントとか。。。

タダで送って下さる人が居ました。

(その感謝の気持ちが、今の私のベースになっています)


腰が立たないから、
車の運転ができませんでした。
(当時、私はミッション車でした)

家から、バス停まで1分。
そのまま名古屋駅まで30分の高速バスに乗れる。
そんな便利さが命の救いでした。

そして
バカみたいだけど〜
車の運転ができないから…と、
ショッキング・ピンクの原付バイクを買いました。
買い物の為。


厳密なゲルソン療法をやりました。
(今は、いろんなアレンジをしたゲルソンと名の付く本が出ていますが
私は、やっぱり今村光一さんが訳した、
元祖『マックス・ゲルソン』著の本が基本だと思っています)

プラス
Dr.ポーリングの『メガ・ビタミン』理論。と
『分子矯正医学』
(Dr.ポーリングはノーベル平和賞と科学賞受賞)
理論を理解する為に
ダウン症の子供達を食事で治した精神科の医師が書いた
『医師の為の食事療法』ロジャー・ウィリアムス著。


人参も、ダンボールで送ってくださる人が居ました。
桃・・・も、ダンボールで送ってくれる人が居ました。
桃は、食べ終わったら、種を庭のテラスのコンクリートの上で、
金槌で割って、種の中を食べました。

外に出る時は、
タッパーに、人参をスティックにして入れて持ち歩いていました。
(プロテインも)
喫茶店に友達と入ると・・・
サラダをドレッシング無しで頼んで。。。
それとガムシロップ無しで『ミルク』
その牛乳で、持参のプロテインを飲みました。
(家では、スキムミルクを水に溶かしてプロテインを飲んでいました)


完全無水・無油料理をマスターしました。
(今でも、私の『肉じゃが』とか〜煮物は、お水を入れないのです^^)
無水・無油料理は丸元淑生さんの本がお勧めですvv


正直、過酷でした。
とんでもなくきつかった。。。
口に入れるモノを管理するコト・・・
とんでもない精神力が必要です。

遠くまで買い物に行けないから、
近くのスーパーでスミムミルクや無脂肪牛乳を切らさないように
何度も何度も。。。本当に何度もお願いをして…
お店に入れてもらっていました。

実際、
こういう栄養素療法を始めたら・・・
トイレの前から離れられない日が続きました。
(トイレの前で、座布団を並べタオルケットを羽織って寝てました)

しかも
ゲーゲー吐くから。。。
ボールを抱かえて寝てました。

下痢と嘔吐の繰り返し。。。

水は・・・
浄水器も欲しかったけど…買えなくて。。
大きなボールに、水道水を勢いヨク流し入れ、
テーブルの上に放置し
(放置している間に、塩素を飛ばす・・・塩素は揮発性)
キッチリ2g飲む。


洗腸もしました。
今では、エステでもやっていますよね。
当時は・・・人前で。。。言えませんでした(^^ゞ


最初の3週間あまりは、最悪(>_<)
下痢と嘔吐。
口内炎(舌の下のスジが切れるほど)
肌もボロボロ。湿疹やミミズ腫れ。
一向に、元気に立てるようにもなれなかったし。。
でも
それでも
やり続けられたのは…
「体の芯が温かくなってきた」
・・・
体温が上がってきたワケじゃないけれど、
体の奥の方が、温かくなってきてるという感覚が、確かにあったのです。


抗がん剤の時の下痢・嘔吐とは、明らかに違いました。
抗がん剤の時は・・・
背骨の髄に、悪寒が走っていましたから。
その悪寒は。。。足の先にまで伝わっていました。


この頃の子供のコトの記憶が無いのですが
ちゃんと学校に行っていたので、
子供のコトもやっていたのでしょう。
次男の保育園のお迎えは、当時、小学1年生の娘が行ってくれていました。
送りは、次男のお友達のお母さん。


私の両親は、
私が抗がん剤も拒否し
こんなワケの判らないコトをやっている姿に嫌悪感を持っていたので
全く、音信不通になっていました。

ホントその頃は
遠くの親戚(?親?)より、近くの他人様さまでした。


そして・・・
11月2日。
キッチリ栄養素療法をやって3ヶ月。
骨シンチ検査。
腰椎の影は消えていました。

消えたら・・・
「何かの炎症だったかな??」と主治医 (>_<)
・・・・・・・・
「まっ いっか。。」と心の中でつぶやいていました。

でも
私の主治医・・・
ご自分なりに、医者として、私がやっているコトを
医者の目で観ていてくれています。


それより何より
まだ、インフォームドコンセントも無い当時、
自分のカルテを覗くだけでも
看護婦に叱られる時代から、
私の主治医は、
私の血液検査のコピーの要求を受け入れてくれていました。


で、
この腰椎の影を消したコトを細かくワープロのフロッピーに
記録してあったのですが、
家にドロボーが入り、そのフロッピーだけケースごと盗まれました。
お金も盗まれなくて、フロッピーだけです。
その当時、
もう人前で話し始め
人さまの相談にも乗っていたコトを
気に入らない人が居たのか。。。??
ヨク
家の留守電に
「早く、死ね!!」と言う電話が入っていました。
一人は、現役の医者でした。
堂々と「医療の進歩の妨げになる!!早く死ね!」と言ってくる医者がいました。


あるある・思いっきりのお陰で
「食事と病気が関係ある」ことが世間に認知される前の話です。


それから、
この3ヶ月間も入れて、2年間
ビッチリ栄養素療法を続けました。
その後、緩和して(例えば、お肉を全て茹でて使う)
5年間、続けました。

その7年間の後。。
私もちょっとグレたくて、
病院にも行かず(血液管理を辞めたってコトです)
半年以上、不良の食生活をしてみました。
(先ず、マックを解禁しましたvv)
(大好きなポテトチップも解禁しました)
(カップラーメンも食べました)
ら、
肝臓の数値も悪くなり、
腫瘍マーカーも上がっていました。
(体の不調までは無し)


それからは、
ストレスを溜めないように
簡単にポイントを掴んで、管理してきています。
そして
ずっと
元気ですvv





トコロドコロ、文体が変わっているようです、が、
そのままupしま〜す(*^^)v